
積立で過ごす
都会の夜のイルミネーションの輝きを見れば、美しいと思います。
しかし、美しい光に目を眩まされて見えなくなっている陰の部分で、恐ろしいことが進行しつつあるような気がするのです。
「人の心の離」の中に、得体の知れないものがうごめいているような、そんな感じです。
飽和状態に達した世界の中で、大小無数の「例外状況」が起きていて、それが、何とか無事に日々をやりすごしている人の心にも、大きなストレスを与えているのではないでしょうか。
だから、何かことが起こると、キレる、投げ出す、ひきこもる、あるいはうつになる。
最悪の場合は、自分の命を絶つ。
「普通の人」と言われている人に、ある日、突然異変が起こる今日このごろです。
多くの人が心の「臨戦態勢」を強いられているような気がします。
死は無意味、ゆえに生も無意味 そうした「臨戦態勢」がもっとも濃密に、しかも積極的な形であらわれる場所は、死と隣りあわせの強制収容所だったのではないでしょうか。
V・E・フランクルは、第二次世界大戦中、アウシュビッツなどの強制収容所に収容され、ある男性と知りあったのですが、年齢も上で体力も劣るフランクルは生き残り、強健で年も若い彼は死にました。
フランクルは過酷な扱いを受けながらも望みを捨てず、この状況を生きぬいて、「人間的に悩みたい」と願いつづけていたそうです。
でも、その男性はあきらめてしまったのです。
生きることの意味を確信しているかどうかで、人間の生命力は絶対的に変わってくるのです。
トルストイは、「無限に進化していく文明の中で、人の死は無意味である。
死が無意味である以上、生もまた無意味である」と言いました。
人が自然の摂理に即した暮らしをしているときは、有機的な輪廻のようなものの中で、生きるために必要なことをほぼ学んで、人生に満足して死ぬことができます。
しかし、絶え間ない発展の途上に生きている人は、そのときにしか価値を持たない一時的なものしか学べず、けっして満足することなく死ぬことになります。
だから、確たるものの得られない死は意味のないただの出来事であり、無意味な死しか与えない生もまた無意味であるというのです。
第三章でも言いましたが、自然の摂理に即した暮らしとは、伝統的な慣習の中に生きていた私の母親の人生のようなものを言うのでしょう。
その意味で、母は幸せだったと思います。
しかし、いまの私たちはそのような決まりきった環境の中で生きることはできません。
人間のサイクルの律動みたいなものに身を任せて、疑問なく生きて、疑問なく死んでいくことはもはやできないのです。
先へ先へと猛進していく時代の中では、一人一人の人生は「通過点」の一つにすぎなくなります。
すると、人びとは、自分ほとりあえず生きているけれども、何の生き甲斐があって生きているのかわからないといったことになりがちです。
実感がないから、自分がいなくても誰も困らないだろう、いくらでも代替可能なのだというような気分になる。
すなわち、生きている意味が磨滅していくわけです。
いまの世の中で、自分が生きていることに真に感謝し、生きている喜びを心から謳歌しているという人は、どのくらいいるのでしょうか。
慣習による抑止力も無効 先日、「自殺」に関するテレビ番組を見ていたら、「死にたいと考えている人に、死ぬなと言うのは、じつは残酷なのだ」という意見がありました。
これはある意味真実だろうと思います。
しかし、自分がもしそのような場面に遭遇したら、やはり「死んではいけない」と言うだろうと思います。
迷いながらもです。
一口に死と言っても、「価値観や道義心から絶対に譲れない」という形而上的な死もあれば、「借金の返済さえできていれば死なずにすんだ」といった形而下的な死もあります。
ですから、「死」を一般化しては語れないのですが、たいへん難しい問題です。
漱石の『硝子戸の中』の中に、こんな話があります。
漱石のもとに、あるとき女性が訪ねてきて、身の上話をします。
それは、聞いているほうが息苦しくなるほど悲痛な告白で、語り終えた後、女性は漱石に、「もし、自分のような女を小説に書くとしたら、その女は死んだほうがいいと思うか、生きているべきだと書くか」と尋ねます。
漱石は、その女性が世の中で一寸の身動きもできないような立場にいることを察します。
それでも、女性に「死なずに生きて居らっしゃい」と言うのです。
そして、日ごろ、自分の胸にしばしば「死は生よりも尊とい」という言葉が往来していることを思います。
そう思っても生きている理由は、父母、祖父母、曾祖父母と、ずっと遡って数百年、数千年続いている人の生命の習慣を、自分一代で断ちきってはいけないからだそうです。
「生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」とはけっして言えないというのです。
そして、こう述べます。
「斯くして常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は、遂に此不愉快に充ちた生というものを超越する事が出来なかった。
しかも私にはそれが実行上に於る自分を、凡庸な自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。
私は今でも半信半疑の眼で凝と自分を眺めている」 思想のうえでは死の尊厳を尊んでも、現実的には人はやはり天寿をまっとうすべきである。
みずから命を絶ってはいけない。
自分の命は自分のものではなく、父祖から与えられたものであるI。
これはある意味たいへん正論です。
しかし、同時に、私はこのような説得が、いまの人たちに対してどのくらいの抑止力を持つだろうかとも思うのです。
漱石の時代には、とにもかくにも、こうした人の生存上の慣習や慣行のようなものがまだ生きていました。
また、いまと違って結核などの不治の病が多くあり、死亡率が高かったことも関係するでしょう。
だから「命を粗末にしてはいけない」という観念が当たり前のようにあり、「人を生かす力」として生きていたのです。
それは「自分がどこにいるか」という位置も示してくれていたし、生きる意味を見失ったときの「助け船」にもなりました。
しかし、いまはもう、そのような慣習意識はありません。
最初から無規制状態に置かれています。
生きているのが空しくなったとき、慣習に基づく考えから死ぬことを思いとどまろうと考える人などいるでしょうか。
これも結局、個人の「自由」が進んだからです。
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